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メビウスリングというサイトの詩の読書会で、 Paul Celanパウル・ツェランの詩 
Paul Celan "PSALM"『頌歌』を 学び、わたしは この詩に出てくる薔薇がどのような薔薇で
あったであろうかということについて、もうすこし わたしなりの思惟を重ねてみようと 想ったのが
このブログをたちあげた きっかけです。


パウル・ツェランの生涯
まず ツェランの生涯の概要から 触れてみます。

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ナチスの強制収容所で両親を亡くした悲しみの体験を原点に、言葉を紡ぎつづけ、狂気の果てにセーヌ川に身を投じた詩人、パウル・ツェラン。

 

1920年、両親ともユダヤ教徒の家庭に生まれた。

1941年、ナチス・ドイツの侵攻により両親とともにゲットーへ移住させられる。

翌年、ツェランの両親がトランスニストリアの強制収容所へ移送され、ツェラン自身も強制労働に狩り出された。

同年秋、両親ともに収容所内で死去。父親は移送中にチフスに感染したためで、母親は射殺だった。

 

1942年から1944年まで、ツェランは各地の労働収容所に送られ、

1944年、解放されると、ツェランは精神的に憔悴しながらも 学業を再開。

1945年、親戚とともにブカレストに移住、翻訳する仕事に就く。自作詩の発表もはじめていたが、共産主義独裁の空気を嫌い、

1948年パリに亡命、同年に第一詩集『骨壷の中の砂』を上梓した。

1951年、女性版画家のジゼル・ド・レストランジュと知り合い、翌年に結婚。

1952年のこの年には 詩集『罌粟と記憶』を出版。

この詩集にはナチスによるユダヤ人虐殺をモチーフにした代表作『死のフーガ』が収められている。

1955年フランスの市民権獲得。

同年第二子エリック誕生(第一子は生後まもなく死亡)。

1960年、ゲオルク・ビューヒナー賞を受賞。その記念講演『子午線』は彼の重要な詩論である。

1967年ジゼルと離婚。1970年パリで死去。セーヌ川で遺体が発見されており、自殺と考えられている。




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Paul Celan "PSALM"
   飯吉光夫訳『頌歌』



Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.

   誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
   誰でもないものがぼくらの塵に呪文を唱える。
   誰でもないものが。

Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.

   たたえられてあれ、誰でもないものよ。
   あなたのために
   ぼくらは花咲くことをねがう。
   あなたに
   むけて。

Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.

   ひとつの無で
   ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
   ありつづけるだろう、花咲きながら——
   無の、誰でもないものの
   薔薇。

Mit
dem Griffel seelenhell,
dem Staubfaden himmelswüst,
der Krone rot
vom Purpurwort, das wir sangen
über, o über
dem Dorn.

   魂の透明さを帯びた
   花柱、
   天の荒漠さを帯びた花粉、
   茨の棘の上高く、
   おおその上高くぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
   花冠。

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「頌歌(PSALM)」は普通では神へのほめ歌であるが、ここではそれを「誰でもないもの」(Niemand)への頌歌とした。これは、リルケの「薔薇よ、おお純粋な矛盾/こんなに多くの瞼の下で、誰の眠りでもない(Niemandes Schlaf)という/喜び」という詩句を踏まえているが、ツェランの方が神への恨み(危急の際、救援に駆けつけなかったことへの)がこもっている。
(飯吉光夫編訳『パウル・ツェラン詩文集』白水社 解説より)