るるりらの流支(るーしー)

わたしは、詩を趣味としている 主婦で、詩板では るるりらと なのっております。 このブログは まずわたしが よき詩の読者であるための場所がほしいとおもい たちあげました。 よろしく お願いします。   


 

「薔薇の木に薔薇の花咲く 何事の不思議なけれど」は、
北原白秋の言葉です。
わたしは、いま いえそれは不思議なことに 想えてます。たとえば、
Paul Celanパウル・ツェランの薔薇は、何事なのだろうか。という想いから
このブログを書いています。


無謀かもしれません。まず、わたしの目に映る薔薇があるなら
ほかの人の見ていた薔薇のことを 想うべきじゃないかなと 想い
散歩をしてみました。

すると、どうでしょう。すこし歩くだけで 薔薇は薔薇らしく
わたしの目の届く場所にあるものです。

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小雨をうけて さえざえと薔薇が咲いていました。
つかれた
頃、ちいさな喫茶店があったので中に入ってみると
なんと そのお店の中は、薔薇の装飾がほどこしてあるものが
随所にありました。イヌも歩けば薔薇にあたる、です。^^

お店の方にうかがってみると、薔薇が好きなので
薔薇をモチーフにして 陶器も焼いたのだそうです。
テーブルにも 硝子板の下にも 薔薇色のフリースを切っただけだという
布が敷いてありました。


薔薇とは、このように 高揚感のあるものだと 思いました。
パウル・ツェランの薔薇も 高揚感であると わたしは 思います。
わたしのような薄い知識のものが
この詩の 冒頭の一連目は、宗教観が影響しているに違いないと 
読むのが普通だと私には、想えます。まず ドイツという国のなりたちなどもっと 踏まえるべきだろうと 思います。

その上でそこに咲く 薔薇に 想いをよせるべきでしよう。

しかし、わたし自身の感じる薔薇は、やはり幸福と呼べる高揚感を
わたしに もたらしてくれました。
 
ときより この薔薇色の高揚感のことも、 おもいだしながら 読み深めてゆこうと想います。
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Paul Celan  "PSALM" 


↑ここを クリックすると 課題としているこの詩が表示されます。

※1【psalm】

psalm 発音記号/sάːm, sάːlmsάːm/

1 賛美歌聖歌.
【語源】
ギリシャ語ハープをかきらしてわれた」の
七十人訳聖書における詩篇のギリシャ語タイトル『プサルモイ』(心を動かすもの、複数形)に由来する。

※1【Niemand】



たとえば、
 Niemand raucht bei uns zu Hause.(家では誰もタバコを吸いません。)
というように、誰も○○しない。というような構文に使われる。

 突然だが、日本語のパッパラパーの語源は、ドイツ語だという説があるらしい。発音



日本では、自分の愚かさを 自傷ぎみにいうときにパッパラパーと言うことがある。この日本語は、
そんなに昔から使われていた言葉ではなくて、1980年代ごろから使われているようだ。そういえば、祖父母は このような言葉を使わなかった。
 ドイツのpapperlapappの場合は、十八世紀もまえから たわいのない話をよく喋る人々のことを揶揄して、papperlapappと言ってきたようだ。 

もし、わたしが この【psalm】 という詩の中で、連呼している【Niemand】という語のことを、日本のアニメ主題歌むのようだと云えば、ドイツの方々は わたしのことを おそらく「papperlapapp」とおっしゃるに 違いない。
しかし、 この詩のniemandの繰り返しが、 私には、昭和の名作アニメの主題歌「やつらのバラード」に 思えた。

なんにもない なんにもないまったく なんにもない 生まれた 生まれた 何が生まれた 星がひとつ 暗い宇宙に生まれた 星には夜があり そして朝が訪れた なんにもない大地にただ風が吹いてた ♪
ギャートルズというアニメの主題歌です。(「やつらの足音のバラード」
園山俊二作詞・かまやつひろし作曲 唄 かまやつひろし 曲名をクリックすると動画 有り)



彼は1970年パリで死去。セーヌ川で遺体が発見されており、自殺と考えられている。
このアニメは1974年から 日本で放送されている。80年代になると
日本人は、自分の愚かさにであったとき パッパラパーと自傷した。
わたしは 彼の死の頃、
「なんにもないなんにもない まったくなんにもない」というアニメ主題歌に心を奪われていた。
あのころ、私が知らなかった 事は、なんだったのだろうか、
あの時代を牽引していた 戦争を知る人々の顔を意味していたものは、どのようなことだったのだろうか。
わたしを育ててくれた方々のことを 思い浮かべながら 私は この【psalm】を
読み深めたいと 思う。

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メビウスリングというサイトの詩の読書会をきっかけに、Paul Celanパウル・ツェランの詩について 私自身の認識を もうすこし深く掘り下げてみようと おもったのが、このブログをたちあげた きっかけです。




Paul Celan
 "PSALM" 

Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.

   誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
   誰でもないものがぼくらの塵に呪文を唱える。
   誰でもないものが。

Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.

   たたえられてあれ、誰でもないものよ。
   あなたのために
   ぼくらは花咲くことをねがう。
   あなたに
   むけて。

Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.

   ひとつの無で
   ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
   ありつづけるだろう、花咲きながら——
   無の、誰でもないものの
   薔薇。

Mit
dem Griffel seelenhell,
dem Staubfaden himmelswüst,
der Krone rot
vom Purpurwort, das wir sangen
über, o über
dem Dorn.

   魂の透明さを帯びた
   花柱、
   天の荒漠さを帯びた花粉、
   茨の棘の上高く、
   おおその上高くぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
   花冠。

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「頌歌(PSALM)」は普通では神へのほめ歌であるが、ここではそれを「誰でもないもの」(Niemand)への頌歌とした。これは、リルケの「薔薇よ、おお純粋な矛盾/こんなに多くの瞼の下で、誰の眠りでもない(Niemandes Schlaf)という/喜び」という詩句を踏まえているが、ツェランの方が神への恨み(危急の際、救援に駆けつけなかったことへの)がこもっている。
(飯吉光夫編訳『パウル・ツェラン詩文集』白水社 解説より)


 ★わたしはドイツ語に不案内ながら、単語をひとつひとつかいつまんで
   読み解いて行こうと思います。
     
 

***

ナチスの強制収容所で両親を亡くした悲しみの体験を原点に、言葉を紡ぎつづけ、狂気の果てにセーヌ川に身を投じた詩人、パウル・ツェラン。

 

1920年、両親ともユダヤ教徒の家庭に生まれた。

1941年、ナチス・ドイツの侵攻により両親とともにゲットーへ移住させられる。

1942年 ツェランの両親がトランスニストリアの強制収容所へ移送され、
      ツェラン自身も強制労働に狩り出された。

同年秋、両親ともに収容所内で死去。父親は移送中にチフスに感染したためで、母親は射殺だった。

 

1942年から1944年まで、ツェランは各地の労働収容所に送られ、

1944年、解放されると、ツェランは精神的に憔悴しながらも 学業を再開。

1945年、親戚とともにブカレストに移住、翻訳する仕事に就く。自作詩の発表もはじめていたが、共産主義独裁の空気を嫌い、

1948年パリに亡命、 

『骨壷からの砂 (Der Sand aus den Urnen )』, を上梓。


1951年、女性版画家のジゼル・ド・レストランジュと知り合い、翌年に結婚。

1952年 結婚

『罌粟と記憶 (Mohn und Gedächtnis )』, 1952
この詩集にはナチスによるユダヤ人虐殺をモチーフにした代表作『死のフーガ』が収められている。

1955年フランスの市民権獲得。

同年第二子エリック誕生(第一子は生後まもなく死亡)。


『閾から閾へ (Von Schwelle zu Schwelle )』, 1955
『言葉の格子 (Sprachgitter )』, 1959

1960年、ゲオルク・ビューヒナー賞を受賞。その記念講演『子午線』は彼の重要な詩論である。

              
『誰でもない者の薔薇 (Die Niemandsrose )』, 1963
1967年ジゼルと離婚。
『息の転換 (Atemwende )』, 1967
『光の強迫 (Lichtzwang )』, 1970

『雪のパート (Schneepart )』 (遺稿), 1971

 『時の屋敷 (Zeitgehöft )』 (遺稿), 1976


1970年パリで死去。セーヌ川で遺体が発見されており、自殺と考えられている。

 
 次回は、題名と、 Niemandについてです。  


         

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